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なぜ高山建築学校か?
過疎地飛騨の山合で、遠く北アルプスの頂きに光る新雪の白さをながめながら、点在する集落から立ちのぼるけむりを見る時、誰もがおそれる疑問があります。人間はいつから自然と遊離した存在になってしまったのだろう。都市はいつから自然と決別してしまったのだろうと。人間も都市も相変わらず、確実に自然の一部であるはずなのに。
今、建築を「人類の営為の総体」として捉えなおしてみる時、今日の建築は仮の姿であり仮の名にすぎません。とするならば、建築はどのような姿であるべきなのでしょうか。またどうして、建築が私たちにとってこんなに遠い存在となってしまったのでしょうか。ある人は、「今の都市の建築群は、ショウウィンドーにところせましと飾りたてられた軽薄なファッション群か、スーパーの店頭に積みあげられたパック商品の山でしかない。」と嘆きます。現代の語り部、生きた証人たる建築に、何故このようなことしか語らせ得ないのでしょうか。建築を、解体された部分の単一な論理による「組み替えパズル」として、あるいはまた、建築を置き替えられた言葉による「情報あそび」として取り扱うこと、その空しさにこれ以上耐えることはできません。今こそ、「感性と精神を含んだ身体の水準」で建築を考えなければならないのです。そこで、建築はもとより、思想、社会、歴史、基礎科学、一般芸術等の広い視野からの状況の再検討を基点として、既製の一切の枠組みを超越するための基本的作業から再出発が急務なのです。「極限において人間は、その精神を含んだ身体能力を最大に発揮するものである」という」礎認識をもって、建築を介しての新たなる試みに、あらゆる力を結集し、より大きな力へと広げていかなければなりません。
建築に限らず、今人々が本当に学びたいと欲するのは、むしろ実際に社会との関わりを身体が感じている時からでしょう。だが、今日、われわれの社会は、この要求に応じるための手段も施設も持ち合わせていません。更に一人の人が本当に学ぶ事を欲した時にこれに応じるには、教える側も学ぶ側も同じ基盤にたって、お互の精神と肉体とを含んだ身体のレベルで共に学ぶという方法しかあり得ないでしょう。今こそ本当の学校が必要な時なのです。










